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 真面目に創造に立ち向かっている人間が、自分の創造すべきものを見失った時、これ程無残な状態になるものか!

 どうしても映画を作りたいと考えて、なけなしの金をはたいてカメラとフィルムを買って有頂天になって、さてと街に飛び出した。ところが何を撮ったらいいのかわからずに、飛び出した後で途方にくれてしまい、結局、何も撮らなかった。この「おかしさに彩られた悲しみのバラード」のような話は。実は私自身の体験なのだが、それは映画を作りたいと思っている人達の多くに共通するのではないだろうか。だからごく趣味的にプライベート・フィルムを作っているだけの私にも、この作品に描かれたフェリーニの苦悩が、まるで自分の事のように思えてしまう。勿論、程度はまるで違う。私達にとって、それはまったくの喜劇だが、フェリーニにとっては悲劇以外のなにものでもないのだから。

 無残な創造者は、そこから脱出すべく試みる。過去の記憶を呼びさましたり、さまざまなイメージを思い浮かべてみたりするのだ。だが、それは現実とは結びつかない。ただ貧相なイメージの無意味な連鎖があるだけである。結局は何のテーマも打ち出せない、混乱があるだけだ。フェリーニはそこで、自分自身のそんな心情を映像にぶつけて、それ自体をテーマにしたのだろう。それは、創造の困難さを表現していて尚余りある。カメラをフィルムさえあれば映像はできる、が映画は作れないのだ、と言っている。

 このフェリーニの苦悩それ自体が表現されている映画は、それ故に映画に携わる者必見の作として高く評価されたのであろう。しかし、フェリーニ自身、もはやその問題は解決したのだろうか。「サテリコン」なんて言う、貧弱なイメージを大袈裟なセットでかろうじて支えているだけのような作品を見ると、フェリーニは自分を誤魔化しているのじゃないか、と思えてくるのだ。

(『キネマ旬報』1972年夏号)

☆いやあ、この単純さはすごいですね。フェリーニにしてみれば、こんな風な印象を持たれることを前提に作っているわけです。それに簡単に引っかかってしまい、このような映画評をものするなんて、っていうところですね。それも貧相な自分の映画製作体験まで引っ張り出してね。

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