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愛のために死す

 周囲から許されない愛の終局は死である。これはメロドラマのパターン。友達みたいに話のできる先生、これは学園モノのパターン。でもそれは前半で終わり。後半に入ってそのパターンがつき崩される所に、この作品のテーマが置かれているようだ。

 パリ5月反乱の内容は、そこにいた訳ではないので詳しくは知らない。が、日本の反乱から察するに、そこには変革と堕落が同居していただろう。それは既存体制の人は勿論、旧左翼、新左翼党派とそれらにまつわる知識人たちの理解を超えた。

 この作品でジェラールの父親達は、多分人民戦線の記憶をいまだ持続し、左翼により多くの期待をかけている好意的な人物である。しかし、68年5月の反乱はそうした人達の理解を越えた。そしてそれ故に、それは新たな可能性だった。

 人は自分に理解できない行為を「気違い」と呼び、自分が「正常」であると安心する。例えば、中世の魔女裁判や、近い所では統一赤軍の「総括」のように。だから、世の中から気違い扱いされた時、その人は自分が世の中から理解されない程に革命的なんだ、と理解できる筈だ。換言すれば、ダニエルやジェラールは5月反乱中最も革命的な人達だ。気違いの入口でストップして、並みの人になっている私は恥ずかしい。

 ダニエルの死、まだまだ既存体制(意識)は強いのだ。この作品は、メロドラマ風の題名をつき破り、私たちに5月反乱の総括を提起している、と思われる。そしてアンドレ・カイヤットは愛と言うモチーフを貫きつつ「あなた達も、ダニエルやジェラールのように気違いになれるか」と私達を問い詰める。気違いになれなかった私は、ただただ沈黙し、ホゾを噛んでいるのみだった。

 ひとつ言い足せば、これは太田竜のテーゼ「精神病との闘いはすぐれて階級闘争である」を偶然にも、見事に映像化している。

(『キネマ旬報』1972年6月上旬号)

☆このころの太田竜氏は、竹中労氏、平岡正明氏と三バカ革命浪人とか名乗って、「窮民革命」をとなえていた頃で、まだマトモであった。

 最近の太田氏はどうなっちゃったんでしょね。

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