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プラウダ 〔真実〕

 ウラジミール(レーニン?)とローザ(ルクセンブルグ?)の言葉の洪水は私達に幾分かの失望と希望をもたらした。それは当然かも知れない。

 私達は、「東風」→「イタリアにおける闘争」によって既に、「何をなすべきか」→「映画を政治的に作る」という論理の発展の過程を知ってしまっているのだから。

 彼は「少しもよくない映画」と語ったそうだが、確かにそれはうなずける。

「東風」→「イタリアにおける闘争」のような明晰さを持たない、あいまいな(政治的な)映画に終止しているからだ。併映の「ブリティッシュ・サウンズ」と共に、商業放送のルポルタージュものの内にさえ、それ以上の秀作がある事は喜んでいいいのか、悲しむべきか。ともかく、BBCの放映拒否には、その規制のきびしさしか感じられない。

 見方を変えよう、「東風」へとつなげて見ると、何だか分かってくるじゃないか。「映像(え)と音響(おと)の哲学を新しく出発させること」その通り、その出発への準備、映像の解体、それが「東風」で語られたのだ。「プラウダ」に於いては余り重要に語られていない<黒画面>も「東風」→「イタリアにおける闘争」へと進むにつれて次第に重要な課題となって来ている。「東風」の意味が今になってようやく、読めたのだ。非常に不安定な印象を与えた「東風」も、もっと不安定な「プラウダ」によってはっきりした、と言っては言い過ぎだろうか。

 ともかく、予定の三月から八ヵ月も遅れたとは言うものの、「プラウダ」の上映は日本に特に多いと言われるゴダール・ファンに、その解読の希望を与えただろう。

 駆け出しているように見えたゴダールも、実は、場所的な制約もあろうが、歩いている所を駒とばしに見ていたに過ぎなかったのだ。そして、私達も又、ゴダールと共に一歩々々歩いていかなければならない。それは確かに長征途上におけるゴダールの里程標とも言うべき作品である。

(『キネマ旬報』1972年1月号)

☆残念ながら、「小さな巨人」だけで19歳の批評はおしまい。この批評では既に20歳になってしまっているが、当時の私の「ゴダール・カルト」ぶりがよく分かって面白いです。

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