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寓話的ことば・沈黙・暴力論

キネ旬ニュー・ウェーブ

「ウィラード」について

1 理解を拒絶する行動

「ウィラード」を見て、私は五木寛之の「鳩を撃つ」を読んだせいもあるのだが、そこに於ける動物の人間に対する反逆の意味について考える必要がある事を感じた。それは、論理の飛躍を今許してもらえるならば、ある意味で連合赤軍あさま山荘事件やロッド空港の事件なども理解する鍵を含んでいるのではないだろうか。

「ウィラード」については、あまり芳しい評価は聞かない。その低い評価の中心は「あまり恐くない」点に集中しているのだが。確かに、ネズミという一見不気味な存在を扱っていながらも、映画になってしまうとそれ程不気味さを持っていない。例えばヒチコックの「鳥」が不気味であるのは、その行動の理由が観客に知らされていないからであろう。それに較べ、「ウィラード」ではネズミ達の行動についてその理由がいちいち知らされている。この辺がネズミでありながら非常に人間臭くなってしまう、不気味さを減少させているのだ。しかしながら、一定程度の説明がありつつもそれは充分ではない。ネズミ達の行動についてより考えて行けば行く程、その理由の真の理解を拒絶されるものが感じられるのだ。

2 「ことばと連帯」

 動物が人間に反逆する構図の中には、「ことば」と「暴力」の間にある問題が押し込められている。映画の世界だけでなく、「犬が人間を咬み殺した」なんて言うのは私たちが時々ニュースで聞く事である。人間は、それを飼い主の方に問題をすり変えてしまう。これはおかしいのじゃないだろうか。

「ことば」とは「かけ引き」のことだ。「暴力」とは、それを一切否定した所にある、問題解決の方法である。そして、動物が人間に対して反撥する時、それは人間と動物の間に共通の「ことば」を持たない以上、一切の「かけ引き」を拒否し「暴力」による対決した許さない事になる。

 ここに「ウィラード」のストーリーの謎がかくされているのだ。最初ウィラードと「一緒に」なって戦っていたネズミ達は、ウィラードが彼自身の目的を果たしたのでもうネズミが必要でなくなりネズミを殺した事に対して、「復讐」をする、と言うのが一般的な解釈だろう。しかし、私はそう思わない。ネズミ達は最初からウィラードを「一緒に」なった事などないのだ。連帯とか共闘とか言う言葉があるが、それは少なくとも二人以上の者が、その共通の敵を確認した時に可能となるものだろう。しかるに、その時には両者の間に共通の「ことば」が生まれる。連帯とは各々の間に共通の「ことば」を作り出す事なのだ。

 しかし考えるに、ウィラードとネズミ達の間に共通の「ことば」が存在した事があっただろうか。それはない、一時期たりともない。例えば、ウィラードがネズミ達を発見し、その後、彼等を「教育」し、ウィラードの「ことば」を理解させる過程について。私達がここで気をつけなければいけない点は、ネズミ達がウィラードの「ことば」を少し理解できたとしても、逆方向にウィラードがネズミ達の「ことば」を理解する事は遂になかった、と言う事である。ウィラードがした事と言えば、ネズミ達をエサでつり、時分の「ことば」を「教育」しただけなのだ。確かに、一時期に於いてウィラードとネズミは仲が良かったかも知れない。しかし、ウィラードが「エンプティ」と言うと空の箱に入り、「フード」と言うとエサ入りの箱に入る方の、ネズミ達の「ことば」を彼はどうやって理解しただろうか。それは理解などと言うには程遠い、単なる類推にすぎないのだ。彼は理解しようと努力をする事をせずに、一方的に自分の「ことば」をネズミ達に理解させようとのみ、努力したのである(それが教育の本質でもあるのだが)。

 ウィラードは白ネズミとは常に一緒にいるが、黒ネズミとはあまり行動を共にしたくないので彼を拒否する。黒ネズミは何度もウィラードの前に現れる、彼が何度拒否しようとも現れる。ウィラードは又追い返す。

 会社の書類倉庫の中で白ネズミが社長に殺される時、ウィラードは唯々それを眺めているのみである。

 以上ふたつは、ウィラードがネズミ達の「ことば」をまったく理解していない事の例である。ネズミ達のウィラードに対する「反逆」は、既にこの時、彼らの意識下に於いて準備されている。共通の「ことば」を持ち得ない事を、ネズミ達はこの時はっきりと理解したのだ。

 このような、共通の「ことば」を持ち得ないままの、表面的な連帯は「まぼろし」の連帯にすぎない。ウィラードはネズミ達の「ことば」を理解する事を怠ったまま引き回そうと考えたのである。そして、そのウィラードの誤りを黒ネズミはしつこい行動によって、批判し、繰り返して何度も行ったのだ。もしこの時、ウィラードが黒エンズミの行動の中から、彼等の「ことば」を見つけ出す努力をしたならば、少なくともラストに至ってネズミ達のもはや「暴力」という形でしか表現できない、「ことば」の攻撃を受ける事はなかっただろう。

 私は先述したように、この物語を「因果応報」的なものにとらえる事には、以上の点から反対する。

 ここで、若干脱線して、彼等の間の連帯を不可能な所まで追い詰めた、「ことば」の問題にふれつつ、そこを通して彼等の間の連帯などについて更に論究する。

3 「ことば」と「沈黙」

 以上のように共通する「ことば」をは、真の連帯関係がある者同士内部にのみ存在するわけなのだが、前節の最初に述べたように、「ことば」と「暴力」は、その本質(表現の方法という本質)においては同じである。そして、それらは二者択一的に存在する、と私は思う。つまり共通の「ことば」がない、真の連帯のない所には「暴力」しか存在しない、と思えるのだ。勿論、その中間的な形として「沈黙」があるとも言えるのだが、「沈黙は暴力」と言う言葉通り、「沈黙」とは既に「暴力」を内包しているものだ。それはただ目に見える形としての「暴力」がまだ表現されない、と言うだけのことだ。

 この辺の「ことば」と「暴力」の関係を現前化したのが「連合赤軍あさま山荘事件」だった。彼等があさま山荘に逃げ込んだ直後から、警察、報道陣、そして又私達は「牟田泰子さんをタテにとって、何か要求を出すに違いない」と考えていた筈である。しかし、それは最後の最後迄外れっぱなしだった。

 私はその「沈黙」の中からひとつの痛烈なまでのイメージを受けた。つまり、彼等の「沈黙」とは、警察や市民社会の中で安泰な生活を持っている私達の持つ「ことば」に対する断固たる拒否の意志表明である、と言うふうな。(っこで「彼等も結構プチブル的に堕落していたんじゃないか」と言われると思うので、それに答えたい。確かに既に崩壊している組織を無理に引っぱり回したりして、それは堕落と言えるのだが、ある緊張関係を持った情況になると、主体者の立場は非常に深化するのが一般的な法則だ。つまり、彼等の場合それ迄いくら立場があいまいになっていたとしても、あさま山荘の緊張関係に置かれた事によって、彼等の立場は市民社会と正反対に位置する所まで行っていた筈だ)つまり、彼等は私達市民社会内部の人間が持つ「ことば」=「人質との交換条件としての要求の提出」など全く理解できる筈がない。それは、まさしく彼等が市民社会的「ことば」=「市民社会的価値体系」と同居する事に他ならないからである。

 その「ことば」にかえて彼等が提出したのは、銃の発砲と言う表現をとった「暴力」である。そこでは、彼等の持つ「ことば」とはまさしく銃=「暴力」以外の何物でもない。そして、あさま山荘の緊張関係はそこ迄、敵味方の立場を峻別する程に激しかったのであろう。

「アルジェの戦い」に於けるアリの壁の中の沈黙の意味も又、あさま山荘の沈黙の意味とおそらく同質のものであろう。アリのセリフ「あいつらと語るコトバなんか持ってない」が今はっきりと思い出される。

 いま、更に飛躍させるなら、「連続射殺魔」永山則夫にとっての「ピストル」、少々古く「草加次郎」の「爆弾」も又、それら同質の「沈黙」を突き抜いた「暴力」の「ことば」なのだ。

 まさしく「沈黙」とは、敵と共通する「ことば」を持たない意志表示として、「暴力」による表現に達する過程にある「ことば」に他ならない。

「暴力」とは「ことば」であり、「沈黙」も又「ことば」なのだ。

4 不可避な闘い

 以上の「ことば」の概念からすると、「ウィラード」にあっては、動物と人間が共通の「ことば」を持つ事はドリトル先生でもない限り不可能なので、ウィラードとネズミ達が同じ立場にあった事は最初から最後迄一貫して、存在しない事になる。それはア・プリオリに不可能なのだ。しかし、私は先に「まぼろしの連帯」を言った。これはどう説明すべきか。それはトロツキーの「別個に並んで共に撃つ」思想によって解答を与えられるだろう。

 つまりネズミにとって敵は、ネズミの持つ「ことば」を絶対理解できないところの、すべての人間である。ウィラードにとって敵は、親父の会社を乗っ取り、母を殺し、今又自分をクビにしたところの、社長である。社長も又人間であるのだからして、そこにはファシストと闘うプロレタリアとブルジョワジーとの関係に似たものが誕生する。プロレタリアとブルジョワとの間には共通の「ことば」が存在しないにも関わらず「別個に並んで共に撃つ」事を、そこでは要請される。

 そこに於いて誤りを生ずるのは、「別個に並んで」いるのだから、連帯などあり得ないにも関わらず、「共に撃」った体験から連帯できると思い込んでしまう時である。この誤りは、敵の姿を隠し、自分の真の友はだれか、真の敵はだれか、を見失わせる。

 しかし、ここで面白いのは、この誤りを犯したのはウィラードでなく、ネズミ達だと言う事だ。彼等はウィラードと共に社長を撃った体験から、ウィラードと連帯できると考えてしまった。ところが、ウィラードは自分の立場をはっきり知っていた。彼は最初からネズミ達に一方的に彼の「ことば」を教育する事のみ行い、だからこそ、かれは本懐とげた後、若干の自責の念を持ちながらも、ネズミを池に沈めて殺すことをいとわないのだ。

 ダニエル・マンはここで「支配階級の方がより本質を見抜いているよ」と警告しているみたいだ。

 その後、ネズミ達はウィラードを反面教師として、まぼろしから醒めた。ネズミ達はにせの連帯の本質をやっと知ったのだ。ネズミ達の大衆(?)的大反逆のシーンのすごみは、まさしく階級闘争のダイナミックスを私達に感じさせないではおかない。

「ウィラード」が提出した「ことば」と「沈黙」と「暴力」に関わる問題は、文化における闘いのマニフェストであり、そしてそれは批評する者にとっても「批評する『ことば』はいかにあらねばならないか」を考えることを要求するマニフェストでもある。

(『キネマ旬報』1972年7月下旬号)

DVDはダニエル・マンのオリジナル版ではなくて、グレン・モーガンのリメイク版です。

 

☆いやはやまさしく「アジビラ的映画批評」ですね。いっそのこと、こんなもん書いているんだったら、本格的に左翼活動でもやってりゃ良かったんじゃないか、とも思わせる文章です。

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