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パサジェルカ

 原作者アンジェイ・ムンクがその製作を最後まで貫徹したなら、それはそれで劇的な構成の上に立った素晴らしい作品になっていたであろうが、ムンクの製作中の不慮の死は、又別の方法で同じテーマを更に追究する、やはり素晴らしい作品創造の下地を作った。

 実質的な最終製作者である、ヴィトルド・レシェウィッチはムンクの撮影したフィルムを、ムンクの編集ノートに従って編集する際に、ひとつの前提をおいた。ムンクの追究したテーマの本質は一体何なのか、未完の「パサジェルカ」を完成させることを通じて、自分自身もそれを追及しよう、と。その結果として、ゴダールによって引用されたジガ・ヴェルトフの言葉「映画の編集を、撮影前に行い、撮影中に行い、撮影後になお行うこと」の実践が必然的に、行われた。

 つまり、映画を単なる自己完結的な物語としてではなく、批評として製作すること、結論をポンと提出するのでなく、見る者もそれについて考えることを要求するえいが、観客は単なる“ファン的視点”は許されず、ムンクに対するレシェウィッチの関係と同じく、ある意味では創造の側に立たされる、映画だ。

 アウシュウィッツの女囚と女看守との間の心理的戦争。ナチ・ドイツの有能な下級官吏としてあっても、しかしそこにはあくまでも人間としての弱さを持つ。囚人も又人間なのだ。いやむしろ、被害者としての後退不可能な所にいる囚人の方が、人間的なず太さを持って、この心理戦争で優位に立っている。

 ポーランド派の作品群の中でも、戦争に「悲惨」の責任転嫁する敗北主義を露骨にする作品がある中で、むしろ戦争を行う人間そのものの弱さに戦争の悲惨の原因を見る「パサジェルカ」は、被害国である筈のポーランドにありながら、加害者の側に立ち得る希少の作品である。

 スターリン批判が、世界人民が攻勢に転進する機会であることを、作品は体現している。

(『キネマ旬報』1973年3月上旬号)

☆この作品についてはあまり記憶にないのだが、でもポーランド映画のにおいがプンプンする映画であったようだ。アンジェイ・ワイダとかアンジェイ・ムンクとか、結構ポーランド映画は好きでよくみた記憶がある。しかし、もう劇場ではほとんどど上映されていなかったので、 半分くらい京橋の近代美術館フィルムセンターで見た。

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