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映画「さえないやつら」評

 映画を撮りたい撮りたいと思っていて、しかしいざ機材を手に入れた時、逆に何を撮ったらよいのやら分からなくなると言うのは、とっても好きな女の子とやっとの思いで寝る事が出来たのに、イザとなると肝心のモノが立たなかったりして失敗する事と似ていて、本当はよくある事なんだろう。

 その時、映画作家はどうするか、原正孝みたいに、何を撮ってよいのやら迷ってしまっている己れ自身の姿を撮るのか、それとも出来合いの対象を借りて来て、いかにも映画を作ったような気分になってしまうのか。進歩派作家としてベトナム反戦の映画を作る時、一体何を撮ればいいのか分からなくなった時、ゴダールは自ら画面に登場したし、撮り初めの一周期後に来た「何を撮っていいやら分からない」時に、フェリーニはやはり『8 1/2』で自分の姿をマストロヤンニ以上に出してしまった。これに対して、後者の典型とも言えるのが、映画『さえないやつら』(これは故意のミスである)の新人監督吉松安弘なのだ。

 出来合いの、「赤旗・日曜版」連載の原作から、対象も内容も借りて来て、それでいていかにも映画を作った気分になってしまっては困る。原作は(当然にも)読んでいないから、原作とを比較して論じる事は出来ないが、少なくともこの土井原亮という主人公の少年が、テレビ青春(メロ)ドラマの森田健作や桜木健一と言った、相も変らぬ性欲をスポーツで発散させてしまうタイプの主人公とちっとも変わらない事に、間違いないのだ。「革命派でも反動派」でもない、ただの牛乳屋の少年である事、まさに精神に対する肉体の勝利と言う訳か。おまけに、彼の行動が、正義感を唯一の基準としている事、何だ右翼か。等々。つまり、現代の高校生=青春をいささかも捉え得ていない以上、そこには青春映画を作る人間の、青春に対する無理解、あるいは理解できない自分を誤魔化し、理解したような気分になってしまう傲慢さがあるだけなのである。青春が殊更主題とされる得るのも、それがある人間にとって最も情況と密接な関係にある時だからである。である以上、『さえないやつら』においては、あの60年代の後の、70年代の情況と密接不可分の青春が出て来ない限り、それは現代の青春映画とは絶対言えないのである。

 赤旗原作という事で、代々木の動員を見込んで吉松は作ったのかも知れない。ならばオカド違いだ。彼等プラグマチストは、代々木ベッタリでなけりゃ、この映画のように少しでも「トロツキスト」を悪人の範疇から外してしまえば、絶対に認めはしない。その意味では、吉松は情況の読み方すら知らないのだ。唯一、さえていたのは小倉一郎扮するノイローゼ少年で、初めのうちホモを思わせたりして面白い。但しこれは彼自身の演技力であるべきで、吉松なんぞは断固無視すべきだ。

(『映画評論』1973年8月号)

☆『映画評論』初投稿の原稿であります。『キネ旬』のときとは違って、いかにも編集長の佐藤重臣氏好みの文章にしてあるところが、なんともイヤらしいですね。

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