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映画なんて冗談?

 多くを見ていないので確信を持っていえないが、ルイス・ブニュエルの作品に登場する人物は、その大きな特徴として、役柄の明確さを持っているとはいえないだろうか。たとえば、プチブルとプロレタリアの間を揺れ動く人物とか、左翼思想と自分の反動性の間で悩む人物といったものは、一切とうじょうしないように私には見えるのだが。そして、プロレタリアというよりも、むしろそれ以外では決してありえないような貧民とか、典型的なブルジョワとか、それらはまるでハリウッド製メロドラマのように典型的な、キチンと整理された役柄といえるのではないだろうか。

『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』においては、ポール・フランクールとデルフィーヌ・セイリグの旧ブルジョワ階級夫婦、ジャン=ピエール・カッセルとステファーヌ・オードランの新興ブルジョワ階級夫婦、フェルナンド・レイの大使、そしてジュリアン・ベルトーの司教といった具合に、旧秩序からの、近代資本主義時代に誕生した、高級官吏と、そして教会権力という、それぞれにブルジョワジーを構成する重要な、そして明確な役柄である。ただ一人、ビュル・オジェだけが不明確さを見せているようだが、果たして、この寄生的な人物こそが、ブルジョワ達にとって、彼等が幾分かでも革新的な装いを身に付けるために必要な人間なのであって、このちょっぴり反逆的な娘を仲間に持つことが、彼等をよりソフィスティケートさせてくれるのである。ある種のテクノクラートは、彼女の役柄に大変よく似ているのだ。

 このように、典型的なブルジョワ達を並べたところに、原題の『ブルジョワジーの秘かな魅力』の意味があるのだ。確かに、先のような不確かな人物を登場させることは、その作家の属する世界の難解さを反映させることなのかも知れないが、反権威主義者としてのブニュエルにとって、あるいは老作家にとては、そんなのはまだるっこしくて問題を不明確にするだけだ。むしろ、ブルジョワらしく十全にふるまうことが、より物事を明確にする、つまりブルジョワジーの<魅力>なのだ、と。

 とはいうものの、当たり前の社会主義者ではありえない彼は、それだけでいいなどとは決して考えない。でなかったら、この映画は単なるベトナム戦争をあてこすった、映画の中の魅力あふれるブルジョワジーのような、ソフィスティケートされた映画であるはずだ。

 そこでブニュエルは、まずストーリーからプロットを取りはずす。プロットがなくなるからそれそれのシークェンスは、それぞれのイメージだけにとそまり、しれだけでストーリーからリアリティを捨て去ることができるようになる。つまり、すべてのシークェンスがイリュージョンになる。映画は元々イリュージョンといってしまえば元も子もないが、ハリウッド製メロドラマとその追随が一生懸命になってイリュージョンにもっともらしい意味付けをしているなら、いっそ元も子もなくしてしまう方が面白いんじゃないか。

 そんな意味で、三箇所あった<それは夢でした>的なシーンがつまらなかった。そこに商業主義的な臭いはしないだろうか。夢である映画などない。すべて現実なのだ。そして現実はイリュージョンなのだ。映画なんて冗談冗談と本当はいって欲しかったのだ。

(『映画評論』1974年12月号)

☆『映画評論』は、先の「さえないやつら」と、この「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」だけの2本だけ。たしかに『キネ旬』より多少長い文章をかけるので、それなりの自由さはあったが。なんか、あまり満足した覚えはない。

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